即、入院レベル!!

私は、大阪に帰省した娘の言い付けを

守るべく、掛かり付けと決めたその病院

に車を走らせた。必死だった。

病院の駐車場に着くと、降りるのが怖かった。受付に行く、その一心で歩いた。

案の定、息苦しさがこみ上げて来て、

暫く待合室の椅子にもたれた。やっとの

思いで受付を済ませると、間もなくして

名前を呼ばれた。

 

緊急事態発生!

車の吊革をギュッと握りしめたまま近くの

ドラッグストアに着いた。

「お母さん、緊急入院するっ??」

娘の咄嗟の言葉に一瞬、ためらい

入院すれば、楽になるのになぁ。

そう思いながらも私は、こんな状態でも

娘とカートを押して、買い回りしている。

しんどいなぁ、、。

でも、娘の帰省中は、一緒に過ごしたかった。

私の大災難

人間の明日なんて、何が起こっても不思議じゃない。」

娘が帰省したお正月に一度、二人で買い出しに行こうとなって、私は、自宅前の車の

助手席に乗り込んだ。、、と次の瞬間、

急に息苦しくなって呼吸困難??

まさかの突然の大災難。

「ヒ―ツ、、ヒ―ツ、、。」

私は、苦しさの余り、吊革をギュッと

握りしめた。

「え??ちょっと、お母さん、大丈夫??」

慌てる娘。

人生、何が起こるかわからない!

元旦早々の大地震の後、私も家族も

暫く、放心状態の日々を過ごした。

「お母さん、また震度7が来るかも

知れんよ、、、。」

非常に用心深い息子が言う。

だからといって、いざとなれば、

机の下に一人潜り込むのだ。

私は、人間の本質が解るのは、葬儀

と災難の時だと私は、決めている。(笑)

 

昨年暮れに帰省した娘も明けて、3日には、大阪の人となってしまった。

それにしても私のこれまでの人生において

奇しくも元旦に大地震に遭うなんて、

それこそ悪夢であって欲しかった、、。

だが、現実は、私の人生にも大災難を

もたらしたのだ!

 

 

まさか、逆さまな私の人生。

2024年元旦、私は、娘と建てた築2年の自宅

に居た。その事自体、何だか夢のようで、私にとっては、贅沢にさえ思えた。息子が居て、母が居て、昨年暮れに帰省した娘が居て、おせちを囲む中には、安らぎの会話と笑顔があった。

「何だか、不思議な感じや。」

みんなそう言わんばかりの面持ちで、見つめてくる。それも、そうだろう。去年の今頃は、会社で働いていたのだから。

26年8ヵ月勤めた会社を昨年、12月15日に退職。

明けて、家族と過ごす初めての元旦。

何だか、今でも夢の中にいるようで、

もしかしたら、一番、信じられないのは、私

自身かも知れない。その分、喜びもひとしお

 

暖かな日だまりの中で迎えた2024年元旦。

「お母さん、これ、あげる。」

無病息災の御守りだ。

晦日に友人とお寺に参拝して、買って来て

くれた娘のその優しさにそっと手を合わせた。

「ありがとう、、。」

 

お昼頃、みんなでおせちを食べて、ゆったり

まったり日本のお正月を過ごしていたが、、。

 

時間にして、16時過ぎた頃だ。

「ドン!!」

リビングの大型テレビが揺れた!

地震や!!」

たまたま、NHK が、入っていた。

地震です!!逃げて下さい!」

女性アナウンサーのしっかりとした口調。

初回、かつて私は、経験した事のない

長めの揺れを感じた。そして、それが一旦、

収まったかなというタイミングで、

津波です!!逃げて下さい!もうすぐ、津波

来ます!!」

アナウンサーの素早い避難誘導。

暫くして、

津波です!!逃げて!!早く、高台に逃げて!!」

その声色が、緊迫感を呼ぶ。

後にこのアナウンサーは、震災時における

絶叫アナウンサーとして、表彰された。

これぞ、アナウンサーの鏡。

そして、内閣発表、『冷和6年能登半島地震』となる。

この震災を機に私のこれから思い描いていた

人生が、まさかの逆さま人生になろうとは、、。

能登のおじいちゃんが言ってたっけ、

「人生、一寸先は、闇や。」

私の知り合いも言ってたな、

「人生、何が起こるかわからない。」

この言葉を借りて、私を乗せた舟は、まさかの逆さま人生へとチェンジして行った。